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LOGOS-喜びを分かち合い、悲しみをともにするために-Ⅱ

Information

LOGOS-喜びを分かち合い、悲しみをともにするために- の収録写真枚数が限度を超えた、とのコーションが出てしまいました。
そのため2としてこちらのBlogに引き継ぎます。引き続きよろしくお付き合いください。

【Take's PROFILE】

心豊かに、のんびりと・・・。という生活を望んでいます。
あんまり物に執着しないけれど、「形から入る」という矛盾を抱えて生きています。
クリスチャンですけれど、よく礼拝をさぼります。
モーターホーム(キャンピングカー)を2018年11月22日手放しましたが、やはり旅の相棒が欲しくて軽バンをカスタマイズし始めました。いくすすぶんど号で、日本百・続百名城をゆるゆると廻ってみたいと思っています。
単細胞で、理不尽と感じると熱くのめり込んでしまいます。
やせすぎを笑われることこそありました(169cm48kg)が、現在は中年太り(同身長70kg)と生活習慣病イエローカード!!
乳がん10年寛解の妻と文字通り連れ合って、・・・ぃゃそんな彼女にずっと寄りかかって生活しています。


趣味の写真用のBlogを作りました。宜しかったらこちらにも行ってみてください。最近はタイトルを「17文字」で書くことにしています。17文字と言うだけで俳句ではありません(笑)
http://blog.goo.ne.jp/take1960_january/
mixiのIDは 775204 です。
Facebookは本名で検索できます。恐れ入りますが、友人申請はリアル友・知人の方のみ限定とさせてもらっています。1度どこかで飲んだらOKです(^^)/



【POLICY】

2つのボール競技を思い起こしてください。
キャッチボールは、相手が取りやすいところにボールを投げて「受けとって貰う」事を目的とします。
ドッジボールは、同じくボールを相手に投げるのですが、「取れずに落とす」事を目的とします。
会話も同じだと思います。意見が違う人と議論をすることは、僕はステキなことだと思いますが、そこには相手に自分の意見を受け取ってもらうように、真摯に丁寧・丁重に書くことが大切だと思います。まさに会話のキャッチボールだと思います。自分の主張ばかりやあげ足取りのドッジボールではいけません。
このBlog「LOGOS」は、Takeが管理人をしているSiteのひとつです。
「喜びを分かち合い、悲しいことを共有する」ために言葉があると思い、その言葉を使用して、そのコンセプトを実現しようと思っています。
分かち合うためにも、共有するためにも、お互い相手のことを思い、祈り、そして会話をすべきだと思います。
ですから、頂いたコメントはすべてありがたいのですが、その中で一方的に言い放った発言、相手のことを理解しようとしないで攻撃する発言、差別や蔑視的な表現、必要以上の個人情報の開示など、このようなものが含まれている場合は、管理人の権限で削除し、その削除に対しての説明を要しません。
ローカルルールをご了承ください。
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  1. 2021/04/30(金) 23:59:59|
  2. NonGenre
  3. | コメント:0

台湾パイン 売れているみたいです(^O^)/

愛読(視聴)しているYouTube
パイン危機は、逆に日台の友好の印になった感がします。
よかったですね

  1. 2021/04/10(土) 20:35:50|
  2. Mission
  3. | コメント:0

キリストの復活

Happy Easter! イースターのうれしい朝、小田原教会では一人の姉妹が受洗なされました。うれしさ倍増です。

2021年4月4日、この日小田原教会に与えられたみ言葉は、新約聖書ヨハネによる福音書20章1-18節。表記のタイトルの説教を豊田通信牧師して頂きました。今日も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。
なお、聖書は新共同訳、章節のナンバーも記載いたします。

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


翻訳という仕事はとても難しいと思います。原語や当時の慣用句、文法に忠実であると僕らのなじみのない言葉になり理解が難しくなりますが、かといってそこに訳者の意志をいれるとそれはそれで原本に不誠実な訳になる場合も生じてしまうでしょう。

12節 イエスの遺体の置いてあった場所、の「置く」は、言語ではヨハネによる福音書10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 の捨てる、と同じ言葉だと豊田牧師は語ります。
つまり、置くと言うのは物理的な場所と言う意味ではなく、救世主が死んでしまったのなら、神の計画の中でなぜ「救う役を実行できない救い主」を送ったか、と言うイエスの救世主としてのポジションだと言うのです。

どこに、と言うのも同様だと語ります。
同じくヨハネによる福音書
1:38-39 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。
この人こそわれらの救い主だ!と思ってすべてを投げ出す人の第1の疑問が「今日はどこに泊まるのか?」なのか?と言われると少し不思議な感じがします。
が、これを「あなたはこの世界のどの場所に『居る』存在なのか?」と言う意味なら、つまり「あなたは誰なのか?」「あなたはメシアなのですか?」なら十分意味が通じます。それに対してついてきて、これからの行動を見聞きして体験して、自分で確かめなさい、と言うセリフならそれもまた理解できます。

このイエスの遺体を「どこに」「置いたのか」のやり取りの後、8節「信じた」=確認したが、9節メシアが復活する旧約の預言を知らなかったので、10節出会えず帰ってしまったのです。
が、マグダラのマリアはまだ墓の前で泣いていた、とあります。
墓の前で泣いている人に「なぜ泣いているのか?」と言うのも愚問だと思います。が、イエスは預言の通り復活しているのですから泣くにはふさわしくないシチュエーションなのです。
それでもマリアは墓の中、つまり暗闇を見つめているのです。僕らも大きな負の問題に出会った時、なかなか気持ちを切り替えることができません。
よく書いていますが、RFL(リレー・フォー・ライフ)というイベントも、もともとは、1985年アメリカ・ワシントン州シアトル郊外のタコマでゴルディー・クラット医師が、患者が夜になると不安な気持ちが強くなるので、彼ら彼女らを励まそうと自分も一緒に闘い続けると24時間の窓下のグランドのマラソンをしたのがスタートです。
暗闇は不安を増幅させます。マリアもそんな暗闇を見ているうちに取り付かれてしまったのかもしれません。
だから、「マリア」と名指しで呼ばれて、振り返り、光を見た瞬間、その光が復活のイエスだと気が付いた、というのがイースターの出来事なのでしょう。信仰的にはそこに復活のイエスがいたのですが、同時に人間的には闇しか見れずに人生に失望の中、光を見てもう一度人生の歩みをはじめれた、という事でもあるのだと思います。主が復活したように人間も復活の喜びを味わったのではないでしょうか。マリアの「ラボニ!!」の喜びと驚きにはそうした感情を感じてしまいます。
弟子たちもマリアも復活の出来事を理解していたわけではありません。でも諦めて帰った弟子たちよりも、その場で闇を見て泣いていた彼女の方が救わんとして手を差し伸べる相手であったのではないでしょうか?

聖書には、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」(ルカ5:31)とあります。そして「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:21b)とあります。
悲しみの深いマリアが最初に栄光を見れたことは感動です。

****

復活のイエスに出会った話は、記述者の一番印象に残った出来事だけが書かれているのかもしれません。復活の驚きと喜びの話の後は、それぞれです。
ルカはエマオに行く弟子たちのところに顕われたイエスのことを記し、ヨハネは民衆やローマから身を隠すようにカギをかけた一室に顕われたイエスを描いています。
しかしマルコとマタイは同じことを記しました。

マルコによる福音書16章7節
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

マタイによる福音書28章10節
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

ガリラヤへいけ、というメッセージは何か? に対して、富田牧師はBlogの中(▼ガリラヤ  第3のメッセージ。)で
 それは、イエス様が癒やそうとした病人や障がい者がたくさんいるところ。
 生まれながらに貧しくて、その日食べる物にも事欠く人がいるところ。
 そして、「お前がそんな風に生まれついたのは、お前自身か、お前の先祖が罪を犯したからだ」と、
 苦しんでいる人の苦しみを上塗りするような事しか言えない上流階級の人々によって侮辱され、
 差別される人のいるところです。
 イエス様の活動はそこから始まりました。


僕は、神(=イエス)のメッセージを直接聞いたことがありません。
しかし、藤田牧師が病に倒れ、先生のお働きの何かを受け継ごうと横浜寿に出かけ、そこで寿日労の近藤氏から「小田原にもいるんだよ」と言われたその言葉は、もしかしたら僕への「ガリラヤへ行け」だったのかもしれません。
トルストイの靴屋のマルチンの話ではありませんが、神は「神様でござい」と現れたりしないのでしょう。

野宿者支援は決して華やかな社会問題の活動ではなく、でもそうした問題が足元にある。足元を見直す、ということがガリラヤへ行くことであり、そして神がイエスが、僕らに伝える言葉は聞き逃してしまいそうな些細な会話の中にあるのかもしれません。
花婿の到着を用意を怠らず目を覚ましていなさいと聖書は書きますが、まさに目を覚ましているということはそうした些細な神様のみ言葉をキャッチすることなのかもしれません。

イースターを迎え、この地にある問題にかかわるなどという大風呂敷を広げることは致しませんが、なにか神からの召しがあればアンテナをイエスの言った「ガリラヤへ行け」を敏感にキャッチできるように張っていたいものです。
  1. 2021/04/05(月) 20:02:54|
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  3. | コメント:0

イエスの十字架

2021年3月28日の主日礼拝。松田教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 15章21ー39節。表記のタイトルの説教を清水康牧師より受けました。今日も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。
なお、聖書は新改訳、章節のナンバーも記載いたします。

15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
15:22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。
15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。
15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。





『いたぞ、あいつらだ。』『窃盗団だ』『捕まえろ』
『くそぉ!何しあがるんだ』
深夜、自警団と窃盗団のやりとりは、いくら強くても多勢に無勢で、どうにか一網打尽に。
『なんだ!こいつはあのバラバじゃないか!』『おーい、とうとうバラバを捕まえたぞ!』『牢に送り込め、こいつなんか十字架につけろ!』『そうだ!十字架だ!!』
・・・けっ、こんなやつらに捕まるなんてとうとう俺も焼きが回ったな、まぁあれだけ暴れたんだから年貢の納め時だな。もう逃げも隠れもしねーよ、十字架にでもなんでもつければいいんだ。

牢に入れられたバラバは、外の騒ぎに目を覚ました。
『うるせーなー』
『出ろ、ピラト長官が直々に裁判をしてくれるそうだ』『神妙にしろ』
『今更ガタガタ逃げやしねーよ』…しかし騒がしいな、なんで俺の裁判にこんな騒ぎになってるんだ!?

ところで祭りの時には1人釈放するのが習いになっているが、誰を釈放するのだ?
『バラバだ!』
えっ、俺っちかよ。なんでだよ、あれだけの殺しや盗みをした俺を許すっていうのかい!!
では、イエスはどうするのか!?
『十字架につけろ!!』
おいおい、あったことはないけれど、このイエスって野郎は、悪りいことしないで、人様を治したりしたんだろ?なんで俺っちが許されてこの野郎が十字架なんだい。
そりゃあ俺はよ、悪い事たくさんしたから十字架につけられてもしょうがないけれどよぉ…。

****

イエスが十字架についた後バラバはどうなったかは書かれていません。しかし、自分かイエスかという時に自分が許された釈然としない気分は抜けないで生涯を過ごしたんでしょうね。
たぶんそんな釈然としないもやもや…つまり世への理不尽感から、きっと悪事すらの興味を失わせるんじゃないかな、と僕は思うのです。まっとうな生き方に変わったんじゃないかな、と。

そんな人たちがほかにもいます。
15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
とあります。ただ通りがかっただけなのに、見ず知らずの死刑囚の手伝いで40-50㎏もあろうかと言う十字架の横棒を担がなければならないのか?理不尽だと思ったことでしょう。ついてないな、と思ったことでしょう。シモンについての記述はほかにはありませんが、ローマ人への手紙
16:13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。
とあります。もしかしたらこのルポスは十字架を担いだシモンの息子かもしれません。だとすれば、この些細なきっかけが、イエスの教えを信じるきっかけのはじめとなったのかもしれません。

百人隊長については記載の通りです。異邦人であるがゆえにもしかしたら冷静な目で見れていたのかもしれません。極悪人の処刑だ、しっかり見張っていろ、といわれたその相手が何か今まで出会った犯罪者のにおいがせず、それよりも何か澄み切った何かを感じる…。
仕事とは言え、朝の9時から6時間イエスを見つめ続けたその中で何か感じるものがあったのでしょう。
15:39 イエスの正面に立っていた
という聖書の言葉には、物理的な正面と言うだけではなく、傍から見る傍観者ではない、真摯にイエスと向かい合ったという意味があるのではないか、と牧師は語ります。

十字架の意味を知ったものは、僕らクリスチャンも同じです。
わたしはキリストの十字架に守られている バラバもシモンも百人隊長も、キリストの十字架に守られたことを実感したからなのでしょう。恵みを感謝。

さて、30余年松田教会で牧会を務められた清水牧師が本日をもってご引退なされます。
牧師の説教のほかに

20210328-02

お連れ合いの英子さんの腹話術の証もありました。

20210328-01

各自いろいろな思い出話が出ましたし、数人の信徒の無牧の教会に赴任した牧師夫妻も思い出を語ってもらいました。
清水牧師とは小田原交流パトで20余年ご一緒させてもらったし、3・11震災後アメリカカベナント教会の多額な献金をもって福島仙台に行ったのも大きな思い出です。また、詳細は割愛しますが2018年1月21日より教団小田原教会に籍を置きながら松田教会の礼拝にも出席しているわけですが、行ったとたんに会堂の根底からの大リフォームにぶつかりご一緒させてもらったのもいい思い出です。
お疲れさまでした。ありがとうございました。新居に落ち着いたら遊びにお邪魔させてもらいます。

20210328-03

  1. 2021/03/28(日) 17:15:22|
  2. Service
  3. | コメント:0

Covid-19の影響なのかな?

就職スーツなどは購入しなかったので、いつできたかは覚えていないけれど、その時には確か既にもうあった。小田原の郊外洋服店の中では一番古いかもしれない。
そんなコナカが閉店すると言う。

20210326-01

形あるものはいつかは滅び(壊れ)る。しかも最近の小田原は商業エリアは酒匂川の東、いわゆる川東地区に移動し、確かに駐車場に止まっている車の台数も少なくなったような気もするが、それでも同業他社の駐車場の入りとはあまり違いはなかったように見える。
が、閉店の決断を下した。
長い事ここに青と赤の看板があり、道順を伝えるときも、「コナカの信号を」と言ったところにコナカがなくなるのは残念だ。

で、閉店セールをするという。そういえば僕が持っている唯一のスーツは、20年近く前に教会の役員になった時に購入したもの…だと思う。
普段は着ないので教会の行事など、年間に着るのはわずかだが、それでもさすがにくたびれた。
ということで行ってみれば、なんと半額。
1着購入しました。
年齢からすればもうこれが人生最後のスーツ?

20210326-02
  1. 2021/03/26(金) 19:25:41|
  2. NonGenre
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